「おひさま」一家

「おひさま」が始まって1ヶ月半。
昭和14年春、僕のお袋も13歳、宮崎女学校に通っていた。
兄が2人(健次、純)いたから、まさにお袋の家族を見ているようだ。
2人とも早く亡くなったので、僕は面識がないが、お袋は健次兄さんのこと
陽子(井上真央)のように慕っていた。
お袋は宮女を卒業後、共立女子大の家政科に入学した。
つまり、育子(満島ひかり)のように単身で上京したというわけだ。
父親(熊次郎)は小学校の校長先生だったから、理解はあっただろうが
所詮、明治生まれの男だ。「女のくせに・・・」という男が蔓延している
代。当時16歳で上京させた熊次郎夫妻は、寺脇康文原田知世のように
理解のある親だったのだろうか? この2人にも僕は面識がない。
ただ、熊次郎は妻を病気で亡くした後、再婚している。だから、お袋には
群馬県倉渕村の村長をしていた兄?がいた。
その人に僕は会ったことがあるが、お袋は「自分の家の前までしか、
舗装しない村長なんて・・・」と言っていた。
後年、お袋は父方の祖父(明治郎)と同居することになり、よくなぐられ
た。「女のくせに・・・」という言葉を、僕もよく耳にした。
母親を罵倒する明治男のような男にだけはなるまいと小学生の僕は
心に誓ったものだ。
ユキやタケオ、タエのような貧しい人々も多かった時期に、女学校に通わ
せられる身分は、宮崎でも恵まれていたのだろう。
 
お袋も宮崎で、こんな楽しい学校生活を送っていたのだろうか?
戦争(太平洋戦争)がひたひたと近づいている(すでに中国に進出して
いるが・・)時期に、ジャンヌダルクに憧れ、家出をし、飴屋で
「だべって」遊んでいたのだろうか?
月末、介護施設にお見舞いに行ったときに聞いてみようと思う。
ただ、残念ながら85歳のお袋は、うつろな目で、たぶんこう言うだろう。
「どうだったかね~。女学校??? 行ってたかな~?」