リビングという言葉が一般的になったのは、いつのことでしょうか?私が北九州や佐賀にいた時、
つまり昭和30年代は、居間という言葉しかなかったような気がします。
ただ、キッチンとかダイニングキッチンという言葉はすでにあったのではないでしょうか?
ダイニングキッチンが広くなり、分離してリビングになったような気がします。
北九州の家は2DKでしたから、6畳の和室が居間でした。もちろん、寝室も兼用です。
ちゃぶ台があり、それを部屋の隅に立てかけて、布団を敷いたわけです。そこに両親と
私の3人が寝て、兄姉は4畳の和室に寝ていました。当事、私は4歳から8歳でしたから
この記憶はアルバムの写真によって作られているのかもしれません。その居間の片隅に
テレビがあり、大相撲やプロレス、アニメなど好きな番組を見ていたような気がします。
佐賀に移ってからは、少し広くなり、6畳の和室が1つ加わり、そこに姉が習い始めた
ピアノが据えられました。キッチンに続く6畳間の居間と横並びに南の庭に面していました。
アパートに較べると縁側もあり、なかなか優雅な家で、古いことを除けば、広さにおいては
満足できるものでした。
さらに、兄が東京の祖父母の家に居候することになり、子供部屋である4畳間に私と姉の机が
並べられ、二人で占領することができました。ある時、突然、猫が我が家にやってきて、
この4畳間にものすごい勢いで駆け込んできました。するとなんと、ねずみを追いかけて、
格闘の末、口にくわえ、悠然と出てきました。なるほど、猫はちゃんとねずみを駆逐できる
んだと納得したものです。
大田区の家は、さらに広く、居間も10畳近くありました。西側のふすまを開けると
8畳の和室とつながり、大所帯でも問題ありませんでしたので、曽祖母、祖父母と兄も
同居になりました。つまり4世代8人の大家族になったのです。
真ん中に掘りごたつがあり、冬になると、炭を入れると非常に快適な設備でした。
掘りごたつの中はちょっと危険でしたが、よく、隠れては親や兄弟をからかっていました。
言ってみれば、子供の頃の私はさざえさんの「カツオ」のような存在でした。
炭をおこすのは母の仕事で、鍋の底が魚編み機になっていた独特の道具をガスレンジの上に置き、
火をつけていました。火がつくとそれを火鉢に映すのです。
暖房は火鉢もありましたが、石油ストーブが中心で、常にやかんをかけていました。
時々、カバーの閉め方が悪く、居間全体を黒い煙が充満したことが何度かあります。
当時のストーブは円筒形で、母が点火した後、よく確認せずに、台所に行ってしまったからです。
黒い煙は妙な「すす」を発生し、そこいらじゅうに黒い糸が舞い降りていて始末が大変でした。
台所は小さく、テーブルも置けないくらいでしたから、食事はすべてこの居間でした。
台所からいちいち「おひつ」や味噌汁の鍋なども運ばなければいけなかったので、
ダイニングキッチンに変わったときに、なんて便利なんだろうと感心したものです。